オモロイ坊主の「ヴィパッサナー瞑想」と「慈悲の瞑想」
ヴィパッサナー瞑想について6
(六)
瞑想者が、自分自身というのは、ただの気づきの対象になる、身体という物質と心のみであることを知るとき、この『区別』として認識(サティ)する智恵のことを
(namarupa
pariccheda nana)と呼んでいます。
それが、ヴィッパサナーの智恵の始まりです。
この智恵を正しく得ることによって、さらに成長していきます。
その智恵のことを(paccaya
padggaha nana)といいます。
普通の人々は、物質と精神の現象は、
一生を通じて不変なものであると考えています。
子供のころから大人になるまで、そのように思っているのです。
しかしすべての現象は、非常に速いスピードで生じて滅しているのです。
それらは永遠、不変のものではなく、まばたきする間もないほど早く生じ滅しているのです。瞑想者は、確認(サティ)する作業を通じてそのことを知るようになるでしょう。
そして、そのようなすべての現象が常に移り変わっていくものであること、つまり『無常』であることに確信を持つようになるでしょう。
さらにその智恵は、あらゆるものが無常でであり、苦しみであることを認識することに引き継がれます。
ちょうどそのころ瞑想者自身も、身体のあらゆる苦しみに(苦の集合体)に出会うでしょう。
次に瞑想者は、これらの心理的身体的現象が、誰かの意思によってコントロールされるものではないことを確信するようになります。
そしてまた、個人の自我の実体として作られているものではないことを認識します。
瞑想者は瞑想を続けていくことによって、すべての現象が『無常』『苦』『無我』であることを確信を持って認識するようになり、そしてニッパーナ(涅槃)に到達することでしょう。
すべての仏陀達、阿羅漢達や聖者達が、この道に従ってニッパーナを体験したのです。
すべての瞑想者は、いま自分自身が『智恵の道』と『智恵の果』の達成を強く望んでいることを認識すべきです。
聖道と聖果への、達成を確かに望んでいるすべての瞑想者たちは、今、サティパッターナの道によって歩んでいることと、徳の完成、涅槃という真理に向かって、歩んでいることを、喜びを持って認識すべきです。
さらに仏陀や阿羅漢達も、この修行をする以前には体験していなかった、集中(サーマディ)によってもたらされた心の落ち着きと、たぐいまれな智恵を得られる、ということを予期して励んで下さい。
彼らも最初の段階では体験していませんでしたが、自らの修行によって聖道と聖果を体験したのです。
実際、一ヶ月、あるいは二十日、十五日間の集中した修行において体験できるでしょうし、徳の完成によっては七日間の間に体験することもあります。ですから瞑想者達は、以上に述べた法を確信を持って信頼し、この特別な時を歩み続けて下さい。そして自我と懐疑から自由になり、苦しみの中に生まれ変わる危険から逃れるべきです。
仏陀達は確実に修行を完成されたのだ、ということへの『信頼』を杖に、瞑想実践を続けていくべきです。
皆様方の瞑想実践がより有意義に行われ、仏陀や阿羅漢達、聖者達が体験したニッパーナに速くたどりつけますように。
サドーウ・サドーウ・サードウ。
マハーシ大僧正
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